ねこさま王国さんより
2014年度のにゃんこはうすのカレンダーが発売になりました。 詳しくは、にゃんこはうす日記から。
今週末のレスキューも、にゃんこはうすの人手もレスキューの人手も足りなかったので、朝早起きして捕獲器を掛け、一旦にゃんこはうすに戻り、猫の世話をして、また向かう・・・って言うハードなものでした。
年末まで毎週・・って思ったのも、我が子を待っている飼い主さんに「クリスマスプレゼントに捜している我が子を」届けたいって意気込んでいたのもあったんです。
今回はお天気に恵まれ、 私はゆきちゃんと一緒に大熊、双葉、富岡のいつもの場所に
ゆきちゃんも、
私も、願いを込めて捕獲器をかけました。
気は焦るんだけど、生き物の気配がなく、
人の住んでいない町は、だんだん荒れ果ていて。
こんな寒々とした町に取り残された子が、まだいるのなら早く捕まえてあげたくて気が焦って。
一旦にゃんこはうすに猫のお世話をしに戻ると、
シャチくんサンタがケーキと猫のご飯を抱えてきてくれて、
「にゃんこはうすに華やかさを」って飾り付けを頑張ってしてくれてた。
そして、なぜが迷い犬がいて。
<首輪に電話番号が書かれていたので、連絡したらすぐ迎えに来てくれました。>
本当にばたばた。
急いで猫たちの世話をして、また捕獲器の回収に(車で片道1時間近くはかかる)
でも、
捕獲器には誰もいなくて。
がっかりして。。。
第一原発を横目ににゃんこはうすに帰った。
最近、
「死の淵を見た男」という本を読んだ。
いつも見る景色の中で、福島に通いだした最初の方から、
第一原発に向かう作業員さんが乗ったバスや車といつも沢山すれ違っていた。
皆、窓ガラスに頭をもたれて疲れているようだった。
2011年の夏ぐらいまでは、原発に向かう一番近く辺りの(3キロぐら)6号線のあたりを通り過ぎると、
車の中でも60マイクロシーベルトぐらいあって。
外は、原発の近くは一体どのぐらいあるんだろうって、恐る恐る通っていた。
ニュースでは当初の爆発から、自衛隊やハイパーレスキュー隊の給水作業の様子を見ていたものの、
実際の現地は4月でさえ、道路に津波の跡があり、道路が陥没していたり、崩れていたりしていたので、大きな車が通っていけたとは考えにくかった。
そんな時より前の、地震、津波直後の原発内での決死の作業の話だった。
いつも聞きなれた「作業員」と言う言葉でなく、
父であり、夫であり、息子であった人々が、
逃げ出しても責めようのない事態に直面しながらも、
「最悪の事態」を防ぐ為に、「死を」覚悟して原発の暴走を防ぐ為に命をはった数週間。
最悪の事態になったら、故郷が、日本がほとんど人の住めない所になったしまう。
5000万人の避難。逃げる場所なんてない。
にゃんこはうすのスタッフの中に、当時、第一原発にいた旦那さんを持つ人がいます。
事故から一週間経って、ようやく電話が入り、
泣きながら、
「生きて帰れないかもしれない。」とあったそうだ。
そんな電話も奥さんであるスタッフは小さな子供を抱え、避難中で直接電話口にも出れず、
ずっと死ぬほど心配したって言っていた。
原発の是非や東電の責任論とは別に、日本を守るために死を覚悟して守ってくれた人達がいたことを、
家や故郷を失った方々が今でも苦労し続けている現実を忘れてはいけないのだと。
クリスマスの華々しいイルミネーション。
クリスマスの夜に、
平常の生活を送れる自分自身と、猫たちと、家族、友人。
日本を命懸けで守ってくれた、そして、今も収束の為に高線量の中作業し続けている人たち。
日本人として、この本に書かれている事は、絶対に忘れずに、心から感謝したいと思います。
今回のレスキューは子猫が2匹でした。
日曜日に1匹。
そして今日、月曜日にもう一匹兄弟を保護できました。
今週末のレスキューも、にゃんこはうすの人手もレスキューの人手も足りなかったので、朝早起きして捕獲器を掛け、一旦にゃんこはうすに戻り、猫の世話をして、また向かう・・・って言うハードなものでした。
年末まで毎週・・って思ったのも、我が子を待っている飼い主さんに「クリスマスプレゼントに捜している我が子を」届けたいって意気込んでいたのもあったんです。
今回はお天気に恵まれ、 私はゆきちゃんと一緒に大熊、双葉、富岡のいつもの場所に
ゆきちゃんも、
私も、願いを込めて捕獲器をかけました。
気は焦るんだけど、生き物の気配がなく、
人の住んでいない町は、だんだん荒れ果ていて。
こんな寒々とした町に取り残された子が、まだいるのなら早く捕まえてあげたくて気が焦って。
一旦にゃんこはうすに猫のお世話をしに戻ると、
シャチくんサンタがケーキと猫のご飯を抱えてきてくれて、
「にゃんこはうすに華やかさを」って飾り付けを頑張ってしてくれてた。
そして、なぜが迷い犬がいて。
<首輪に電話番号が書かれていたので、連絡したらすぐ迎えに来てくれました。>
本当にばたばた。
急いで猫たちの世話をして、また捕獲器の回収に(車で片道1時間近くはかかる)
でも、
捕獲器には誰もいなくて。
がっかりして。。。
第一原発を横目ににゃんこはうすに帰った。
最近、
「死の淵を見た男」という本を読んだ。
いつも見る景色の中で、福島に通いだした最初の方から、
第一原発に向かう作業員さんが乗ったバスや車といつも沢山すれ違っていた。
皆、窓ガラスに頭をもたれて疲れているようだった。
2011年の夏ぐらいまでは、原発に向かう一番近く辺りの(3キロぐら)6号線のあたりを通り過ぎると、
車の中でも60マイクロシーベルトぐらいあって。
外は、原発の近くは一体どのぐらいあるんだろうって、恐る恐る通っていた。
ニュースでは当初の爆発から、自衛隊やハイパーレスキュー隊の給水作業の様子を見ていたものの、
実際の現地は4月でさえ、道路に津波の跡があり、道路が陥没していたり、崩れていたりしていたので、大きな車が通っていけたとは考えにくかった。
そんな時より前の、地震、津波直後の原発内での決死の作業の話だった。
いつも聞きなれた「作業員」と言う言葉でなく、
父であり、夫であり、息子であった人々が、
逃げ出しても責めようのない事態に直面しながらも、
「最悪の事態」を防ぐ為に、「死を」覚悟して原発の暴走を防ぐ為に命をはった数週間。
最悪の事態になったら、故郷が、日本がほとんど人の住めない所になったしまう。
5000万人の避難。逃げる場所なんてない。
にゃんこはうすのスタッフの中に、当時、第一原発にいた旦那さんを持つ人がいます。
事故から一週間経って、ようやく電話が入り、
泣きながら、
「生きて帰れないかもしれない。」とあったそうだ。
そんな電話も奥さんであるスタッフは小さな子供を抱え、避難中で直接電話口にも出れず、
ずっと死ぬほど心配したって言っていた。
原発の是非や東電の責任論とは別に、日本を守るために死を覚悟して守ってくれた人達がいたことを、
家や故郷を失った方々が今でも苦労し続けている現実を忘れてはいけないのだと。
クリスマスの華々しいイルミネーション。
クリスマスの夜に、
平常の生活を送れる自分自身と、猫たちと、家族、友人。
日本を命懸けで守ってくれた、そして、今も収束の為に高線量の中作業し続けている人たち。
日本人として、この本に書かれている事は、絶対に忘れずに、心から感謝したいと思います。
今回のレスキューは子猫が2匹でした。
日曜日に1匹。
そして今日、月曜日にもう一匹兄弟を保護できました。